昭和57年08月23日 月次祭
今朝から家内が私の足を揉みながら申しますので、先生あなたはもう誰よりも10あっとショットなさるですばいち、ですから私が今68ですから78のお爺さんと同んなじだとこう言う意味なんです。そう言われて見るとそうだな、この頃は目はこんなに薄くなるし耳は聞こえなくなるし、足はこうよろよろして本当言うたらもう78どころか、88のお爺さんでももっと増しな体の状態じゃなかろうかと、思う位にこの頃言われました。ですからまぁ言うならばせめてだから。
年はそうでしょうから78がたの信心をね、いよいよ身につかなければ相済まんとこう思います。今日は78がたの話をしますからどうぞ、私が78にもし川の流れのおかげを頂いたら88のお話が出来るようになるだろうと思うです。どう言う様な信心をさせて頂いたらそうした、まぁ言うならば78がたの値打ちのある信心と言う事が言えるだろうかと、合楽で只今言われますのは、天気がバック程心強い事はない、神様がいつもバックなんだと天地がいつもバックである。心強い。
お商売をさして頂くのに、大きな銀行なら銀行が後建てになってくれると、どんな商売でも出来る様なもんで、ところが最近合楽で言われるのは、天地がバックではなくて、天気いう自由の世界、天気といつも交流し合って居る世界。ためにいよいよ一切神愛論をマスターしなければならない。一切神愛論、どんな場合であっても神愛とそれが感じられる、そこには不平も無からなければ不足も無い、もちろん不平不足を思う事も無くなってくると言う世界。
もしそういう世界があるならばそういう世界に道を付けてもろうて、そういう道を本気で歩かせて頂く、稽古をしなければならない。もう稽古をしない者は何十年通って日産が出来ておっても駄目です。そういう言うならば一つの私は手本を先ず頂いて、皆さんに示しながら皆さんにお話を聞いて頂き、またお取次ぎをさして頂かなければならんと思います。今朝から御理解88節でございました。どんなにつらい時があっても人に悪い顔お見せてはならんとというあの御理解です。
それで私は今日皆さんにその事を聞いて頂いたんですけれども、今朝の朝の御祈念にこれだけたくさん毎朝毎朝朝の御祈念に参拝をして見えますが、この人達がここへ坐って御祈念をさして頂く、第一番のお礼は何をもってするが一番本当な事だろうかと思わせて頂いたら、大きな丸いあのうショーケです味噌超しの大きいとです。大きなショーケです。それに一杯空豆を今千切ったと言う様な空豆いわゆる夏豆が入っておる、こう山盛りにあるところを頂いた。
これはショーケと言う事も理由があるでしょう、夏豆と言う事はもちろんもう理由があります。私共の信心と言うのがどんなになら完璧と思うておっても、完璧であるということはあり得ないですから。まぁそれはショーケのようなもんじゃないでしょうか。おかげだけは水も漏らさん様なおかげを頂いておるけども、実際はショーケのようなもんじゃなかろうかとまぁ私は思うたです。空豆と言う事は私は夏豆と申しますからね、だからこのまここ2、3日は今年夏の最高に暑いとこう言われておりますが。
その暑い夏のこの暑さの中にもめげる事も無からなければ、寝込む事も無く、日々こうして朝のお参りが出来ておる。いいや朝のお参りだけではない一家中が、こうしてまめで達者なおかげをうけておる、金光大神の祈りに祈られてかまわれての、このおかげを思う時に、本当に信心させて頂いておるおかげで勿体無い、この様なおかげを日々いわゆる、まめなおかげ頂いておると言う事を、一番にお礼を申し上げなければいけない。それからと言うてなら言葉だけじゃいかん。
言うております思うておりますと心だけではいかん。本当にそれが有り難いと思われる時に、その有り難いのお礼の印にと言うのが今朝からの御理解でした。お礼の印に。どうでしょうか皆さん御信心を頂いて本当に、なら今晩でもこうやって健康であればこそ、まえであればあこそこうやってお参りが出来た。その有り難いお礼心をです、今日こそ人に悪い顔お見せなというわけで、はしゅうはしどまりですね。人に言うならば悪い顔ども見せてはならない。
いつも心の中に生き生きとした喜びを頂いて、一切を喜びで見喜びで聞き喜びで行うていくと言う様な、これを今日のそのお礼の印にさせて頂こうと言う様な、信心こそが信心の稽古だというのです。はぁ今日の御理解は有り難かった。先生がいわれりゃそうどこじゃなかった、本当に健康のおかげを頂いて、まなけ達者でおかげを頂いておるが有り難いと、言うたり思うたりしただけじゃいかん。それじゃ神様に通じない通わない。神様に絶対に通う今日の88節じゃないばってん。
まぁそれこそ広がりに広がる様なおかげを頂くためには、そういう心が神様に通うて神様が受け取ったと、言うて下さるような稽古がいる修行がいるんだと。と言うて私はもう10年にもなりましょうかね。私の3男幹三郎が肉腫でお医者さんは、もう100の物なら99はもう駄目だとあきらめて下さいっと。その時にお世話して下さった富永と言う先生がお母さんにそれを話された。お母さんあなた方が信心なさるから、あと一つあるもしあるならば奇跡が一つ残っておるだけですとこう言われた。
99もう駄目だとね。その時に御信者さん方が毎日毎日一斉祈念をして下さった。その事に御祈念をして下さった。中にそこの合楽の田中さんがここでお届けされました事を今日きいてもらった。親先生幹三郎さんがおかげを頂かれる事のために、今日から例え茶碗一つ洗わせて頂くでも、何をひとつさせて御用させて頂くでも、その御用すべてが幹三郎さんが、言うなら一つ残っておると言う、奇蹟のおかげを頂かれるための、修行にさせて頂きたいと思います。
という話を今日の御理解朝のテープで、田中さん聞かれてから改めて今日ここ出て来られた。親先生本当にあん時のごたる信心が出来たら、あの時ゃちょうど農繁期でございましたが、お百姓さんがうちには手伝いに参りました。そしてどんなにきつかろうがどうしょうがこれが、幹三郎さんが100に一つしかないと言われる、奇跡のおかげを頂かにゃん為の修行だと思うて、それをま行事さえて貰うたとこう言う。そういう人達の祷りが沢ぁ山集いわばまった訳ですね。
ですからやはり奇跡が起こった訳です。金光様の先生は好かんと言いよったのが、帰ってきたらもうそのまま学院行を自分で願い出る様になりました。その明くる日もうそん時にゃもう既に黒衣のお供えが来とりましたから、明くる朝から黒衣を着て私の3時の起床に出て来て、あのうお供さして頂く修行が始まったのは、もうその退院したその翌日からでございました。私はその事を田中さんから今日改めて頂いてね、頂いて本当ちょうど本当そうじゃったなぁ。
柿が、永瀬さんとこの柿狩りのおかげを頂いて、自分も一緒に行ってから自覚症状はあんまりないもんですからね、あそこで逆立ちかなんかして遊びよったんです。そのう帰ってからすぐ入院でした。そん時にこれは私の信心ですけれども、もうお医者は駄目だとこう言われる、だから駄目だろうとだからそのために親子3人で、金光様のところにお届けにも行ったし、もう言うならば最後の別れの積りで御参拝さして頂いた。
言うならば右になろうが左になろうがもう神様にお任せすると言う心が、私の心には出来とったからひとっつも心の中に動揺がなかった。ままよままよとは死んでもままよの事だという、これはもう諦めとか横着と言うのじゃないです。そのままよと言う心が出来、そうしたら今日その事をね神様に、ほんにあぁだったなぁというて思わせて頂いとったら、大きなあのう湖を頂いてその湖がですねもうそれこそこう何て言うですか、あのう竜巻が起こりましてね。
その竜巻が起こったその水がどうぅと天に向かって登って行くところを頂きました。はあぁ本当におかげおかげと言うて来たけれども、こう言う働きを受けてあの奇跡が起きたんだなぁ、言うならままよままよとは死んでもままよの事だと思う様なこころとは。いいよ青天に天、天に通ずると言うがまなかなか言葉だけですけぇ、なかなか晴天に通ずると言う実験実証した人は少ない。私が頂いとる御教えに地真水心とある、地真、地の真とという、水の心と言うのである。
ははぁいうなら地の心を心とする事が真なのだと言う事です。それに徹するという事なんです。合楽で言われる地の心に徹する、土の心でとか成り行きをいよいよ徹底して尊ぶという事あ、天地の地の心に通うのです、水の心も同じ事です。言うなら四角い器に入れれば四角、円い器に入れれば丸い器に入れれば丸い器に従うていくのが水の心であります。言うならば素直心一つでなるほど雲の上までも登る道がある。これは久富茂男さんが頂いておられる御教えなんですね。
なるほど言わばそのう地の心水の心、例えま右とか左とか言わんもう、そこに出たとこ勝負、一本勝負、それを有り難く受けようと言う心なのである。泉の水が竜巻になってそれが、天にこう昇天していく様な勢いというもの。それにはいわゆる地心水心、水の心それこそが真であったと言う事になります。市政天に通ずるとはそういうこと、だから合楽で皆さんが頂いておる、信心はもう天に通う地に通うお話なんです。それをなら最近合楽ではもう天地がバックではなくて、天地の心と一つになる。
天地人力きとの世界にすむ。それはいよいよ地の心になる、天の心になら水の心に例えば成ると、それに徹すると言う事がそのまま、天地との交流になる繋がるのであります。それは以来合楽では一切神愛論と言う事言われる一切が、神様のお働きの中にある神様の神愛の現れであると言う事が、実際に分かる時にそこには不平なからなければ不足も無い、あるものは唯お礼を申し上げる事だけと言う事になる。そういう世界があるんです。私が今今日家内に言われてから、本当私はまぁだ67しかならんのに。
そりゃあなたうえはがきばみてんなさいあなた、70いくつで赤ちゃん作りよんなさる。ああたばっかりはもうほんな70,80爺さんのごとしてからと言う風に、家内が申します。又本当にその通りなんです。だから私は肉体はそうでございますけれども、なら心がねその70、80がたの言うならば信心と、間をそう頂こうその焦点は何処にあるかと言うと、いつも天地人域の世界に住んでおると言う事。不平も無からなければ不足も無い、不平不足を思わんで住む世界をいよいよ極めて行こうと言う事になるのです。
あぁそれは親先生だけのものと言う事じゃなくて、言うならここにご縁を頂いておる方達が、そこを焦点にして進んで行かなければならん。昨日梅山先生の家内がお知らせを頂いておる。合楽の修行生の信心を5つに分ける、5つつの段階があると、そして大きな坐り蕪を3つこう頂いたとこう言う。金光様の先生と坐り蕪は坐りの良いのが上等だとこう言われとる。
いわゆる御結界に根が生えたように、御結界に御用させて頂くと言う事が一番の有り難いと言う様な心が開けて来て、不平も無からなければ不足も思わんで済む様な心が第一級じゃなかろうかとこういうね。そこでお互いならどこにあるかと、まぁだ一番一段階のところをうろうろし取る様な事、稽古せんなら絶対2段階に進まんですよしゅぎょうは。はい、そこでなら今日は私が朝の御理解に聞かして頂いて。
なら田中さんがあの幹三郎の難病の時に、私しがさせて頂く一切それは茶碗一つ洗わせて頂くでも修行と思うから、実意丁寧をいわゆる、心をこめてこれが修行だと思うて茶碗を洗わなければならない。よそさんに取り上げのお手伝いにやらして頂くでも、これが幹三郎さんが100に一つと言われる奇蹟を頂く、奇蹟的なおかげを頂かにゃん為の修行だと思うから、もうそれこそきついとか手伝いだからまぁkん暗いで良かろうと言った様なもんじゃなくてそれこそ実意を込めて一生懸命の御用が出来た事を。
今日改めて田中さんから聞かせて頂いてね、ほんにそうでしたなぁっと皆さんもそういう一生懸命の祷りと、そすとなら私の心の中にあるままよままよと、死んでもままよの事ぞと言う様な信心が一つになって奇跡を呼んだ。その奇蹟を作ったと言うその元は何処にあるかと言うとです、言わば私がいよいよ成り行きを尊び、水の心でまたは地の心で天の心でと、そこにいよいよ焦点を置いてそれに徹底しようと精進しておる事だ。から生れてきたもんだと思うです。
だから皆さんねもう本気であのう信心とは徹する事である、徹する事と言う事はこれは信心の熱情が生まれて、稽古しようと言う気にならなければそういう心は生まれてこない。すわっとたっちゃでけん本気で言うならば修行さして、いわゆる稽古と言う事は修行と言う事なんです。だからもう10年もお日参りを続けておりますと言うだけじゃいかんのです。稽古をすれば誰でも言うなら稽古が出来る。はぁ火の行せんならん水の行せんならん、はりゃもうそれこそ一生逆立ちしとかにゃんと言った様な修行じゃない。
人間が人間らしゅう天地の道理に元付いた、言うならば修行をさせて頂くと言うのですから、本気で稽古しようと言う気になったら誰でも出来る修行なのであります。天地日月の心になること肝要だと、教祖が仰っておられるがもう確かにそうですばい、金光様の御信心はもうこれに徹して行く事です。そんためには天の心を知らなければならない、地の心もいよいよ学んでいかなければならない。そして体験をもってこれが地の心だ天の心だというね、麗しの心もいさぎよい心も。
それこそ黙って受けていくという修行も、それが血に肉になってしもうてくる。そこに言わば不平不足、もう不平不足くらい馬鹿らしい事はない。もう本当にここにもうお徳が形成されていきよる、そのお徳がガラガラと崩れてしまうんですからね。はぁだから問題はそれに決してもうそれになり切ってしまう稽古をする事なんです。そこでなら1段階2段階と信心が進んで行く、信心は一年一年有り難うなってくると、信心は年をとるほど位が着いて来るものじゃと仰るように。
はぁこりゃ1段階から2段階、2段階から3段階の徳を受けよるなと、自分でね感じれれる様な信心をいよいよ身に付けて行きたい。先だってからここで英語の先生方がたくさん集まられて、英語の講習会が3日間ですか4間ですかね、ちょうど大祭の明くる日からでした。日本一と定評のある松本と言う先生が見えて、それから英国の方でアランさん、アランさんんじゃったねアランさん。というこれも大変有名な方ですから、その夢の対談というねふつかでやす夢の対談だったそうです。
その先生方が一人一人不思議な不思議な縁を頂いて、帰られる時そのアランさんが私昨日はアランさんのときに4時間余り話が聞こえたと聞いとったけどだしは5時間だったそうです。中原修行生がつかまえて合楽の信心を、もう真から根掘り葉掘り聞かれた。そして今度の英語の講師をかいわかいしたそのものを、自分のためにはたいしてならなかったと。けれどもね合楽の信心を頂いたと言う事がもう最高の幸せであったと、言うてまぁいろいろ話をたくさん残して行かれました。
松本先生もそうでした、おいでられて講演が始まると言う前に胃痙攣をおこされて、さぁ医者だ薬だと言われておるのを、中村先生がまぁ医者や薬だと言われる前に、一辺あの親先生にお取次ぎを頂きなさいませと言うてここへ連れて来た、もう御神米をさげて御神米をならこの御神米を頂いてからお医者さんに行ってこう言うて、なら吉田先生なっといこう、吉田先生言うたっちゃもう御神米頂きなさいっちから、薬やんなさらんですよっちから私が言いましたからね。
それでそうこうしておる内に御神米を頂かれたら、スキッと良くなられた。そして御神米を胸に当てて3日間その講演を続けられた。もうそして合間合間の時間にゃもうここでお話を頂に見えとる。泉尾の先生が世界宗教界げんにアメリカかどっかにおいでられた時に、通訳として付いて行かれた事もあった、ですから金光教には縁がある、ところが私はどうしても金光教にはなじめなかった。金光教に対するイメージが悪かった。ところが合楽に来て一変した。
一変しただけではない私の人生感が変わったと言うて帰得られたと言う事でございます。九州には愛人が出来た様な感じがします。また是非おかげを頂きたい遠いところからですからね、と言う様な先生方のですね、だから鹿児島の方から誰だったでしょうかね女の先生が見えとりました。合楽の先生と言う方はハッピーの神様だっち。私がおたふくさんのごとしとるけんでしょうねやっぱ。福の神のごと見えたわけでしょう。ハッピーの神様もう一人米国の方が、ありゃ何とかいいよった、ディックさん。
このかたも大変なおかげを頂いてね、もうとにかくあのう今度の講習会は英語の講習会か、宗教の講習会か分からんごとあったっち。2日目3日目でしたかここに出てみえてから、ちょうどこの研修を一緒に参加されました。感激してここへ出て来なさってから私に握手を求められて。そしてから私の手にキスをされました。これは最高に尊敬をする方に対するあれは儀礼だそうですね、礼儀なんだそうです。とにかく私は哀楽で説かれておる信心はです。
ただ通り一遍の宗教団とか信心の話ではないと言う事がです、まぁそういう英語の最高見識と言われる先生方が感じられたと。もうそのう先生方に話される、だから家の先生が5人、入っとりましたもん道彦先生方が。先生方掴まえてもうとにかくもう暇さえあれば、あのう先生方のとこへ寄ってから、信心の話を求められたと言う。やっぱしねそのうこう傾倒すると言う事はおかげをぴしっと頂かなきゃ、話だけで分かったんじゃやっぱしいかんごたるですね。
もうもうみえて早々にそういう奇蹟的な体験を受けられたもんですから、もう私の話にもずっとこう傾倒していかれる。私が申しました沢山著作御本を現わしておられます中に、腹芸の論理と言うのがあります松本先生が現わしておられる御本の中に、私はそれを見た時にはぁこの人はちょっと変わった人だなぁ、ただ英語が上手に話せると言うじゃなくて、やっぱり腹芸の出来る人である。その事を申しましたら実は親先生私はここへ参りまして、先生の話を聞かせてもろうてもうそれこそ。
五臓六腑に沁三亘る思いでございますとこう言われる。そして腹芸以上の腹芸が親先生のお心である、またお話にあらわれて来るお話であろうとこう言われます。みなさんそれこそ五臓六腑に染み渡る様な話を、皆さんこうやってほんならお参りをする、日参する人は毎日頂いておるお月次祭たんびと言う人は、お月次祭たんびにこうやって頂いておる若ですから。その五臓六腑に染み渡る様な信心を頂いて、私は最近皆んなに始めて参ってくる方に申しますことは、私の話を聞いて下さいそして分らんかし。
難しいけれどもなんか一言でも良いから、はぁ成程と感じたらおかげが交流する。パイプが出来る小さいパイプでも、そのパイプを通って天地とあなたの間に、交流が始まっておかげが頂けますよと。言うて申し通ります様に皆さんがなるほどと感じるところ、それをね実行に移そうと言う言うならば、信心をいよいよ身に付けておかげを頂かなければいけません。その今合楽で言われるこれは私の願いであるけれども、皆さんのやっぱり願いでもなからなければならない。
不平を言わんですむ思わんですむ信心に仕方、それには一切神愛である、いうなら神愛論をいよいよ皆さんがマスターしなければならない。そしてマスターしなけじゃないそれを実験実証して、成程神愛だと成程一切神愛だと言う事を体験して老田無ければならない。皆さん今日梅山先生が昨日頂いたと言うその、5つの段階の何段階目ぐらいにあるだろうか。まぁだ1段階ところでうろうろしとるだけじゃないだろうか、本気で信心の稽古をさして頂こう今朝当りの様な御理解をですね。
もう本当に一番にお礼を心から申し上げねばならない事は、この暑い中にまめで達者であるしかも一家中がまめであると言う事をです、これは親先生の祷りの圏内に合ってのことだと言う風に、これはねあのうやっぱ身近かぁに感じた方が実感として。親先生の祷りのおかげで今日も健康でこうしてお参りも出来た。だからそれを言葉やら心で思うたり言うたりしとるだけでなくて。そのお礼の印に黙って治めると言う生き方を身に付けよ。ひとに悪い事顔ども見せる様な事でもあってはならない。
と言う様な信心に取り組むということが稽古なんです。そこに信心稽古の楽しみ喜びと言うのが生まれて来ます。それに撤する事です。そこに人間の心なら人間の心に撤する、いわば10年も前の話を改めて今日本当におかげを受けたもんじゃあるなぁと、成程あん時ゃみんな信者さん一人一人が、そういう一生懸命に祈りをして下さった。そん時の私の心の状態と言うのは、いわゆるままよの心であったという、ままよとは死んでもままよの事と言う様な心の状態が開けて来ておったと言う。
そういうものが相まってそれこそ湖の地でしょうね、下にあるその水がね竜巻を起こして、それが天に昇って行くと言う様な、言うなら奇跡が起こって来る。水の心に撤する土の心に撤する、天地日月つの心にふくいきに撤すると言う、その稽古をするというその稽古まで、その稽古であるまめである達者であると言う事の、お礼を言うとりますじゃなくてね。お礼の印にそういう修行をなさると、それがいよいよ稽古にもなり、信心の血肉にもならせてもらえれるのでございます。
私は今日は改めて家内に言われて、もう68ですからちゃ78がたの10年信心の稽古をしたら、これからまたしたがたのいうならば喜びを頂かなければ生きているだけでは、衰えたんじゃいけん心をいよいよ豊かに大きゅう、有り難いものになっていかなけりゃならない。いよいよ不平不足のない不平不足を思わんで済む世界に、いよいよ住みたいと言う風に思います。皆さんもやっぱそれを見習わして1段階から2段階へとこう、言うなら位が着いて行く事を楽しみに信心して頂きたい。
どうぞ。